TALK-TALK タイトル

「楽天家の選択」 (2001/10/7 「キッチン味菜」への寄稿文に加筆しました)

人生50年ちょっと!(2001/10/7) ゆえに、これまでいくつかのターニングポイントを経てきました。
振り返ってみると、仕事については“ダメもと精神と好奇心”にチャンスを与えられたように思います。

地元のカメラ会社に就職した私は、青春を謳歌した20代半ばに縁あってエレクトーン講師のお誘いを受け、迷った末に転職を決心しましたが、 きっかけは、なんと星占いでした。
“新たな変化の年・水瓶座”という文字が後押ししてくれたのです。
結婚退職ならいざ知らず、転職(しかも女性が)をするなんて珍しい時代で、周りがずい分心配してたようですが、今にして思えば仕事運に恵まれたのと、 楽天的な性格が良かったのかもしれません。

それまでの効率一辺倒の仕事から、自分の技量を磨きながら指導するという創造力と責任の伴った講師の仕事にやり甲斐を見出し、 新たな人との出会いに嬉々とした、第二の青春時代でもありました。
ただ、収入が半分以下に激減したうえに、そこから浜松の教室に通う交通費と月謝を支払うと、手元には小使いほども残らず、一人暮らしから母の元に居候させてもらいました。
結婚後も仕事を続けましたが、出産で一旦は講師を退き、自宅で再会した時にやってきた園児の、目を見張るような成長ぶりに責任と限界を感じ、 才能豊かな子にピアノへの転向を薦めて教室を閉じました。

そんな頃、弟の結婚披露宴でエレクトーンを弾いたのが縁で、“渡りに船”とばかり、プレイヤーに転向しようとホテルに問い合わせたところ、すんなり採用されました。
時はバブル全盛、お日柄の良い日などは10組以上の結婚式があり、2.3組を受け持って会場を移動することもざらでした。開演からお開きまでの演奏する曲を組み立て、 司会者やスタッフとのチームワークに、講師とは違った仕事の面白さに嵌っていった私です。その後11年間、途中 “二束のわらじ”で、ブライダルプレイヤー時代を過ごしました。

子育てをしながら 『モダンリビング』片手にマイホームを夢見ていた30歳半ば過ぎ、インテリアコーディネーターという職業を、初めて耳にしました。
30代というのは想いも行動もエネルギッシュになれるものです。コーディネーターというのは、どんな仕事なのか、また自分にに向いているのだろうかと関心を持ち、 近くで催されていたセミナーに参加したり、パースの実技講座にも通いました。その講座の半ばに、離婚という人生の大転機を迎えた私は、どんな仕事をしてでも子供を育て、生計を立てていかなくてはと肝に命じました。
社会保険に加入しているパートの仕事を見つけ、披露宴の仕事と二足のわらじで働きながら、実技講座を最後まで通った頃に、ある建築会社の求人募集が目に止りました。
ただ、豊橋から豊川という距離からして通勤は無理かもしれないと半ば諦めていたのですが、いざ訪問してみると、仮設事務所のような社屋で見た施工例に惹きつけられるものを感じ、 募集していたのは雑用でしたが、その空気の中で仕事ができたら何だっていいと思いました。
家から片道14キロ、40分の会社まで、バイクで2ヶ月ほど通勤しましたが、冬の寒さにたまらず、商用タイプの軽自動車を借金で手に入れました。
そのおかげで、パートは続かないだろうと思われていた会社に、仕事への熱意が伝わったかどうか、コーディネーターとしてデビューし、猛勉強の末、資格も取りました。

でも所詮パートですから経済的には苦しいことに変わりなく、その会社で3年余りお世話になった後、次男が中学・高校へと進むことを見据えて、通勤の楽な市内で社員採用の会社を捜したところ、 募集年齢をはるかに超えていたにもかかわらず、新しい部所を開設するからと採用されました。
コーディネーターというより建築の方に関心が強かった私は、息子たちの応援を背に二級建築士を受験し、その二年後に願望だったインテリアプランナーの資格も取って、今に至っています。

仕事へのチャンスに恵まれ、さほどの気負いも無く、“好き”を原動力にしてきた私を、「夢を実現してきた人」と友人は言います。
夢の続き? まだあるんですよ。一度っきりの人生ですもん、楽しくね。