TALK-TALK タイトル


母の遺したもの

母の四十九日を終えました。葬儀が3月1日だったから、数えるとちょっと早いのですが、亡くなったであろう日を思えば、むしろ遅すぎるのかもしれません。
だれもがそうであるように、突然のことに心の準備もなかったので、お寺は弟に任せ、弟の養子先の義母さん(昨年亡くなられたばかり)の隣を借りることが出来たので、母一代限りのお墓にしてもらいました。 弟の家がお寺のまん前ということもあって、弟の家で七日の供養を続けさせてもらって、四十九日の昨日、桜が舞い散る中で、母らしい小さなお墓に納骨しました。

いつか年老いた母を看取るのだろうと、心していました。
80歳を過ぎての一人暮らしが心配だったので、私の息子たちが家を出たのを機に、同居の話をしましたが、 私が家を出てから、ずーと28年間一人暮らしの母は、自分の時間の流れを持ち、同居よりも時おり娘の所で過す楽しみを良しとしたようです。
病院嫌いで、50年余り煙草を嗜んでいることもあって、病院に行けば即入院ということもあるだろうと覚悟もしていましたが、 今年のお正月と、一月中旬の寒波に来た母は、食欲も旺盛で、まだまだ元気そのもの。 ですから、倒れていた母を発見した時は、本当に衝撃的で、こんなに早くこの日がこういう形でくるなんて! と、とり返しのつかないような後悔と自責の念でいっぱいでした。

葬儀を終えた後、「どうして知らせてくれなかったの?」と母の遺影に問いながら、ふと思い当ることがありました。
休日の昼間、パソコンに向っていた時、揺れるのを感じたのです。「地震?」と思い、テレビやインターネットの地震情報を確認しましたが、結局この日(2/7)は地震が一件もありませんでした。 次の日も会社のパソコンに向っていた時、また揺れるのを感じたのです。この時間に地震は無く、軽量鉄骨の建物だから、風で揺れたんだろうかと感じたことを、 今になって、ひょっとしたら母が私を呼んだのかもしれないと思えてきたのです。

母を亡くした悲しみの最中にも、家の片づけをしなければなりませんでした。弟と甥っ子、私の長男との4人で、おびただしい家具と荷物・・・そのほとんどは私と弟が置いていった一人暮らし時代のもので、 分別しながら、形見として残したものは、暑い季節によく着ていたワンピースと、片手を失った母が鉤針で編んだカーディガウン、今年のお正月に着物を着た私を見て、「着物が着たかった」と言った母が、唯一持っていた着物。(知っていたら旅立つ母に持たせたかった)
とにかくモノが捨てられない母で、30年も前の包装紙から、丁寧に畳んだスーパーの袋、開封もしていない年金関係の書類のほとんどがあったにもかかわらず、確かにあった母自身の写真が、なぜか一枚も残っていないのでした。
それでもと隅々まで探して見つかったのは、葬儀とお墓などを用意するのに充分なお金でした。生前、「お墓を買いたい」と言ってた母でしたから、小さいなりにも用意できて、本望だったでしょう。

人づき合いが苦手な母、その分気丈であった母、自分のことを語りたがらない母、子や孫への愛情表現が下手な母、娘や息子にさえも迷惑を掛けたくないという自尊心を持ちつづけた母。
若い頃から母に反発しつづけた私ですが、相手方に反対された結婚、後の離婚、そのために離れ離れになってしまった息子たちへの想いや、就職、転職のことなど、母にはいつも事後報告(相談ではなく)していました。
晩年こそ穏かに流れるように暮していた母も、決して平坦ではない、むしろ私以上に激動的で、孤高と放浪の人生を過したであろう自身と、私の生き方を重ね合わせることがあっただろうかと聞いてみたかった。 人知れず死にゆくことは、残されたものにとって、ほんとに辛い試練でしたが、思えば母らしい人生の幕引きだったのかもしれません。

母のことでは、多くの人に支えられました。どんなに有り難かったことか。言葉では言い尽せません。感謝の気持でいっぱいです。
時間も助けてくれました。その時間の流れの中で、母の生き様を思い、誰にもいずれは訪れる死というものに、私自身どう向き合うかをも考えさせられました。