Interior Watching
「守田 蔵と聴霜庵」
(2003.9)

 

8月に『蔵の中ギャラリー』へお邪魔した時は、茶室改装工事の最中でした。
陶芸家であり、茶室の設計も多く手掛けられている守田蔵さんに、設計を依頼されたとのことで、打合せを重ね、何度も変更しながら復元の末のお披露目です。

守田さんのお話によりますと、改装する前は倉庫として使っていたため、雑然としていてどうなることかと思ったとか。
もうひとつ、傾斜地のため、階段を登らねばならず、蔵のような空間へどうやってつなげていくかにも、時間を費やしたそうです。
リフォームの場合は、着手前の写真を撮ったりするものですが、守田さんにお聞きしたら、「撮っておけばよかった」 と残念そうにおっしゃっていました。それくらい見事な茶室に甦ったのです。

ギャラリー奥の畳敷きを、“待合”に見立て、そこから内路地へ。つくばいは、深見家の庭にあったものを設えてあり、階段を登った正面には板額『霜聴』、内腰掛に煙草盆が用意されています。
この腰掛の手前側の材は床柱を利用したとのことで、今回の改装にあたっては、なるべくあるものを生かすことを心がけたそうです。
本来の茶室ならば照明を付けないのですが、ギャラリーとしても使えるようにと、床の間と板額へのスポットを設置。
四畳半の茶室は、慎ましやかな美への追求と丁寧な手仕事がうかがい知れ、弁柄色の壁と腰貼りとのコントラストが、『蔵の中ギャラリー』の味を醸し出しています。


 

 

お披露目の言葉より

「聴霜庵」は、20年前、蔵の中ギャラリーをつくるにあたり、壊さざるを得なかった深見家の古い茶室を新たな形で復活させたものです。
当時の板額「霜聴」に心惹かれた陶芸家・守田蔵さんが、深見家らしい個性的なお茶ができることを念願に設計してくださいました。
新たなギャラリーとして、またあるときは茶を味わう空間として末永く生かしていきたいと思います。




In “聴霜庵”, building the KURANONAKA gallery of a warehouse 20 years ago
The old tearoom of the Fukami family which had to be destroyed is revived in a new form.

Mr. Kura Morita ceramist impressed by the clypeus of those days “霜聴”
I want to employ efficiently forever as space which tastes tea at a certain time as a new gallery.

(Language of an announcement)


守田蔵さんのお話会

陶芸家・守田蔵さんは、お話を依頼されることが、しばしばあるそうで、当初は話す内容をしっかりメモして臨んだものの、会場の年齢層、地域性などで一辺倒ではいかないことを感じ、今では会場の人の顔を見ながら、テーマに沿ったお話を心がけているそうです。「守田蔵さんお話会」の参加申込みが多かったため、前日の講演は急遽2回に増やしたそうで、この日は50~60代のご夫婦連れが大半でした。
京都弁でゆったりと語られ、内容の濃い、楽しいお話でしたが、長文を読むのが苦手な方のために、長文の苦手なワタクシが要約しました。

生れた時から虚弱で病気がちだったので、小学校へはほとんど行かず、家に居ることが多く、道具蔵で遊んでいたそうです。親は育たないと思っていたので、好きにさせてもらえたとか。
小学校高学年になって進学校に入れられたが、勉強が嫌いで、学校帰りに道具屋へ惹かれるように入り、そんな少年を店主が可愛がって、お茶やお菓子を出してくれ、子どもだから安心してか、いろいろ教えてくれたそうです。
焼きものに興味があったわけではなく、古い道具に関心があり、ずーっと道具屋通いをしていた。時には大人が「どっちがいい?」と聞いてくることもあったといいますから、“ほんものの美”を観る目は、この頃から養われていたのですね。

大学か就職かという時、体が弱いので労働には向いていないと思ったが、就職したものの、一ヶ月の給料の少なさに愕然。道具屋での売買を目の当りにしていたので尚のことだが、会社の方から辞めてくれと言われ、家でぶらぶらしていると親戚が来て、禅宗の寺へ連れて行かれたそうです。
寺では同年代から下の、いわゆる落ちこぼれた子が修行をしていて、冬は一緒に托鉢に出かけるが、履いたわらじを凍ったタライに入れるので(わらじが切れないように)、冷たくてとてもつらかったそうです。寺での食事は、お粥とタクアン2切れだったが、やっとありつける食事がとてもありがたかったとも。

その寺も出ることになり、家に戻ったところへ同級生に出会い、築120年以上という奈良の古い民家が壊されるのを聞きつけ、譲りうけて移築することになった。
移築の場所を寺の近く(敷地)にと、いくつかの寺を聞いて回ったが断られ、浄瑠璃寺だけが空地を貸してくれたそうです。この古民家が、『骨董・緑青』でも紹介されている守田さんのお住いです。

お金がないので大工には頼めず、友人と家作りに取り掛かった。
ある日、「ここの施主はだれか!」と、下から大きな声がした。その声の主は自分を大工と思ったらしく、施主であることを名乗りでると、「天井の設えが面白い」と言い、「いま家を建築中だからこないか」と誘われ、行ってみると1200坪の広大な土地で茶室を移築していた。電気を通すか通さないかを夫婦で言い争いしていて、意見を聞かれたので、コンセントだけ付けて電灯はやめにしたらと答えた。
後に師と仰ぐこの人は、刀の目利きで有名な人で、行くといつも食事によばれるが、すごい器が出てくる。それも料理との取合せが絶妙。感性が素晴らしく男儀がある。これは只者ではないと思って尋ねたら、上着を脱いだら刺青が・・・極道だった。
新しいものが手に入ると必ず呼ばれた。「どのようにすればきれいに見えるか。上からでなく横からの光源でみると一番きれいに見える」「なんにでも良いとこと悪いとこがあるが、良いとこだけ見よう」と教えられた。

お茶のお点前も手伝ったが、素晴らしい鬼桶(おにおけ・・・信楽焼水指形状の一つで、元来は農具)に出会った。
師匠に値を聞くと、2,000万でも手放せないという。どうしても欲しいと思って、やきものを始めた。
6.7年やっていたが、ある時、鬼桶を持っていったら、師匠の反応が違う。「同じものができたら、言い値で買う」と。
ある時、西武百貨店から電話があり、「個展はいつがいいか」「プロフィールを書いてくれ」と言われた。突然のことでびっくりしたが、プロフィールが住所と名前だけだったので、担当者も当惑したようだ。1986年に初個展。来日とは陶芸家ばかり。
いままでぶらぶらしていたのに、急に陶芸家になった。師匠にお礼を言ったが、「わしは知らん」とだけ。
2回目も西武百貨店でやったが、その時に青柳恵介氏(白洲正子さんと親交のあった現在古美術評論家)に出会った。

白洲正子さんは本でしか知らなかったが、すごい目利きだなと思っていた。その白洲さんが値打の無い炉縁を相当な値で買ったかったという話が、骨董屋の間で噂になっていた。
そんな頃に、白州さんから直接電話があり、どういう人か分っていたので、頭が真白になった。
鶴川の家に行ったときに炉縁を見せてもらったが、一尺六寸(今のは一尺四寸)の見事な炉縁で、栗材の本物だった。
なにか買うと電話がかかってくる。行くと箱を開けずに、何がはいっているのかは一切言わない。自分の思いは言わず、人の判断に任せる人。
白洲さんに京筒形の骨壷を作ってプレゼントしようと思った。大和の話が好きで、話し出すと杖なしで走り回っていたけれど、かなりお歳なので却って言い出せないで、そっと置いてきた。白洲さんが亡くなったあと、娘さんから手紙が届き、白州さんの形見を頂戴したが、その際、「骨壷が小さかったので、骨灰を入れるのに難儀した」と言っていた。
寺で、師匠に、そして白洲正子さんから、“嘘だけはつくな、正直に生きよ”ということを学んだ。