本日の朝ごはん
牛乳をヨーグルトに変えてもらったら、ヤクルトも!
脚のリハビリで、先生から
なにか運動をしてましたか?
と聞かれた。
新たに加わったメニューの、歩行器に右肘を付いて左脚で立ち上がり、右膝の上げ下げ10回3クールを、なるべく背筋を伸してバランスを保ちながらやるのを見ての、先生の質問だった。
若い頃はバレーボールとスキーをやってました
と答えると、それで体感がいいのね、と先生。
バレーボールもスキーも離婚を境に叶わなくなったので、もう35年も前の話。
退職してからはウォーキングくらいしかしてない。
ただ、リハビリでの脚の使い方や車椅子への乗り移りの際は、足や踵の使い方を考えていて、新しいメニューも、その延長なのだ。
リハビリを終えたあと、スキーにのめり込んだ若き日に思いを馳せた。
豊川のミノルタカメラに就職してしばらくすると、バレーボールの女子部が発足し、誘われた。
バレーボールが好きというわけでも無かったが、団塊世代の特養?の、つるむのが好きで、入部した。
男子のバレー部はすでにあって、活躍していた。
そのバレー部には山岳部の人もいて、冬になるとスキー部にもなった。
初めてのスキー体験は、一泊二日の流葉スキー場で、山岳部の人たちが教えてくれた。
滑っては転びの繰り返しで痛い思いをしたが、お昼には帰路につく最後の滑りで、ゲレンデから宿までの道をボーゲンで滑り終えた達成感が、スキーにのめり込む動機になった。
同じくスキーにハマった友人と共に、翌年から、年末年始は二泊三日のスキー教室へ、他の3回は一泊二日のスキー三昧の青春だった。
初めてのスキー教室は、志賀
高原。
名古屋駅に集合して夜行列車でという時代だった。
トンネルに入ると石炭の匂いがする蒸気機関車を体験出来た時代でもあった。
2年目は赤倉の燕温泉。
麓からリフト3つを乗り継いだ高地で、腰まで積もった新雪をかき分けながら、1キロほどを2時間余りかけて宿に辿り着いた。
3年目は八方尾根の一つ手前のスキー場で、翌年最後のスキー教室は、八方尾根だた。
スキー教室では、最初にクラス分けの滑りをする。
斜面をまっすぐ滑って、左右どちらかへターンをして止まる。
ターンの仕方が指標になり、ボーゲンで曲がると初心者、板を少し開いたパラレルだと中級者、板を揃えたままターンすると上級者。
私も友人も、技術は中級者なのに、板を揃えたままターンできるので、上級者のグループになってしまった。
スキー教室では、最終日に検定試験を受けることができる。その課題の一つの不整地直滑降の練習では、途中で飛ばされて最後まで滑り降りられない。
まして、うさぎ平の凸凹斜面をターンして降りる技術もない。
ロープウェイで上がった八方尾根は、スノーパウダーで、上手く滑れるし、気持ちがいい。
2日目の午後3時が最後の教室となり、解散。
あとは一番下のゲレンデまて滑り降りるのだが、なんと滑降競技でも使われるリーゼンスラロームコース!
技術も無いのに上級者グループになってしまったツケは、予想以上にたいへんだった。
まず、ガスってた。コースの中盤まで細くて凸凹だらけ。這うように一歩一歩降りる。
この時間帯は、降りる人のラッシュアワー状態で、ぶつかってきた人と一緒にコースから外れて3mほど下へ落ちてしまった。
幸いにも樹木のおかげで谷まで落ちることなく、助けてもらいながらコースへ戻った。
なんとかかんとか降りて、最後の難関は急斜度の名木山ゲレンデで、斜滑降で端まで行っては向きを変えて斜滑降を繰り返して、なんとか帰還。
思い出深い八方尾根だった。
スキーの道具選択が大事だと、3回目の買い替えで、改めて確信した。
板の長さは身長+10の165cmで、柔軟性があり、スキー靴は前傾タイプの足首上まであって、なだらかな斜面で、初めてウェーデルンが出来た。
何度も滑ってコツを掴んだのに、それが最後のスキーとなった。
おばあちゃんになっても滑るつもりでいたけど、叶わぬ夢で終わった。